1950年代初頭、自社レーベルで録音を始めたPHILIPSは、大指揮者たちの名演を引っさげてLP業界に参入した。第1弾はオッテルロー&ハーグ・フィルによるチャイコフスキー交響曲第4番。そしてヨッフムのベートーヴェン、レーマンのモーツァルト、ケンペンのチャイコフスキーなどが続いた。
それらの中でもとくに注目されたのがベルリン・フィルとの録音。
大戦の惨禍によりガタガタのボロボロになっていたベルリン・フィルだが、LP業界の躍進に伴い録音も増え、ようやく完全復活の兆しを見せ、戦前の黄金時代を再び築きあげようとしていた。
今回の「英雄」は、そんな頃のケンペンとベルリン・フィルのLP録音。
これがすごい。
変わったことをしていないのに、聴いているこちらのツボにすべてがバシバシ決まっていく。全編に奥の深い、本当の意味での「音楽の楽しさ」とでもいうものが満ち溢れているのだ。
潔いテンポで想像以上に快活なのに重心は常に低い。男性的でエネルギッシュな推進力でグイグイ前に進んでいくのに、荒っぽさや強引さは皆無。
これだけ重量級でありながら激しい勢いに貫かれ、なおかつ演奏精度が高い・・・。
こんな演奏にはなかなかお目にかかれない。ケンペン、そうとう念入りに音楽を創り上げているのがわかる。
しかも小細工とか苦心惨憺という印象は皆無。この指揮者が持って生まれた、あるいは生きていく中で持つにいたった「技術」以上の何かをいやというほど思い知らされる。
これほど充実した「エロイカ」は久々に聴いた。
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この業界に入りたての頃、「ケンペンのすごさが分かれば一人前だよ」とベテランのスタッフに言われたことがある。
当時はケンペとケンペンと、さらにケンプまで出てきて頭がこんがらがっていたような状況だったが、十数年経ってみて、ようやくその方の言葉が身に沁みるようになった。
まったく余計なお世話だが、かつての店主のような人のためにその違いを押さえておくと、ケンペが1910年生まれなのに対し、ケンペンは1893年生まれ。つまりケンペはカラヤン、チェリビダッケ、ヴァント世代なのに対し、ケンペンは一世代上のベーム、E・クライバー世代。
そして何より一番の違いは、ケンペはドイツのドレスデン近郊で生まれ育ちドレスデンの音楽学校で学んだドイツ人なのに対し、一方のケンペンはオランダに生まれアムステルダム音楽院で学んだ。
・・・そうケンペンはオランダ人なのである。
オランダで生まれ育ったケンペンは、コンセルトヘボウでヴァイオリン奏者として活躍していた。メンゲルベルクに影響を受けた彼は、その後指揮者を目指し、まずポーランドのポズナン、ドイツのバートナウハイムでコンサート・マスターを務め、続くドイツ・オーバーハウゼンで指揮者となり、1932年にはそこの首席指揮者となる。
そしてここで彼は1933年にドイツの国籍を取得する。
そこのところの事情はよく分からない。
しかし1930年代初頭のドイツといえば、ナチスが台頭してきた時期。そういう時期のドイツで活動するために、ケンペンがドイツ国籍を取ったというのはまったく分からない話ではない。ナチスに積極的に協力するしないに関係なく。
結果、ケンペンの目論見は当たり、1934年にはドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任、このオーケストラの水準を飛躍的に進歩させることとなる。さらに1942年にはカラヤンの後任としてアーヘン市立歌劇場の音楽監督も務めた。
しかしこの時期の躍進は、戦後逆風となって現れる。
戦時中のナチスとのかかわりが問題視されたのである。
当時のドイツの指揮者であれば多かれ少なかれナチスの意向に従わないで活動することは不可能だったが、ケンペンもまたドイツ軍の慰問やドイツ文化披露のために演奏会を行ったことを指摘され、結果、戦後しばらくは客演指揮者として細々と活動することになる。
その後ようやく1949年になって祖国オランダ放送フィル首席指揮者として迎えられるが、オランダ楽壇に復帰したケンペンの立場というのは微妙なものだっただろう。
ナチス疑惑もあっただろうし、そうでなくても敵国ドイツに魂を売った同国人。
果たしてオランダの観客は、そして楽団員は彼を心から歓迎してくれていたのだろうか。
そんな中、1953年、ケンペンはようやくドイツでの指揮活動を本格的に再開。
今回の「英雄」はそんな時期の録音。
時代に翻弄され続けたケンペンが、戦後ドイツでベートーヴェン録音の機会を得たわけである。
しかもベルリン・フィル。
もちろん心中複雑ではあっただろう。が、ケンペンには「やはり自分が活躍する場はドイツ」という思いがあったのではないか。
同時期にはコンセルトヘボウを振ったチャイコフスキーの名演も残されてはいる。
とはいえやはりこの時期のベルリン・フィルとのベートーヴェン録音こそ、彼のこれまでの人生の総決算のような気がする。
それにしても彼がもしドイツ国籍をとっていなかったら、そしてずっとオランダに残っていたら・・・コンセルトヘボウの歴史は間違いなく変わっていたに違いない。
結局彼の心身は限界状態だったのか、この演奏の2年後の1955年、62歳で亡くなる。
ケンペンが実際にどういう思いを抱きながらこの時代を生きていたかは店主には分からない。
しかし強調しておきたいのは、ケンペンが「ドイツのオランダ人」だったこと。
ケンペンがドイツで活躍するには、ドイツ人以上にドイツ人であることが求められたのでないか。たとえまわりがそう思っていなくても、本人はそれを意識しただろう。それゆえにケンペンの指揮は、濃密で重心が低く、ある意味同時代のドイツ人指揮者以上にドイツ的。
かつて自分を魅了したメンゲルベルクの壮大なロマンを胸に秘めつつ、ドイツで培った男性的で骨太な性格を前面に押し出す。
「ドイツのオランダ人」であるがゆえにドイツ人以上にドイツ的なものに憧れ、受け入れ、しかしそうではあっても・・・やはりどこか異質。
それがケンペンの音楽の本質のような気がする。
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