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無残な日常のなかで救いを求めている方に
トマス・ルイス・デ・ビクトリア


 混迷の時代に突入した人類。
 こんなときだからこそ、聴きましょうか・・・
 
 トマス・ルイス・デ・ビクトリア。
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 ビクトリアが生まれたのは、1548年のスペイン。
 当時のスペインの統治者フェリペ2世が狂信的なカトリック信者であったこともあり、ビクトリアも熱心なカトリック教徒だった。というより、作曲家である前に聖職者であった。だから彼は生涯宗教作品以外書かなかった。同じくスペインの大家モラレスもほとんど宗教作品しか書かなかったが、ビクトリアも謹厳で敬虔な聖職者として生涯を全うした(もちろん独身だった)。そのストイックさが日本人にも受けるのだろう。

 またラッススやパレストリーナといった同時代の大家の音楽と比べて、同じカトリック音楽でもどこか内向的で湿った雰囲気があり、またときとして「狂気」と形容されることもある神秘的な情熱もこの作曲家の特徴。カトリック音楽特有のキラキラギラギラの装飾過多的なところがなく、内に秘めた神秘性が禁じられた美しさとなってにじみ出てくる。


 16世紀のルネサンス期。

 イギリスにはバードやタリス、そして大陸には今話したラッススやパレストリーナという大作曲家がいるが、それでもなお店主は「この頃の音楽が聴きたければ、まずはビクトリア」、といつも言う。
 同時代の作曲家の中でも、人の心の奥に入り込んでくる、時代を超えた美しき情感、そして今もそこで生きているかのような存在感に関して、ビクトリアは突出している。

 その音楽に「人間」を感じるのである。

 人をかしずかせ、従順であることを強制するような外面的強さをビクトリアの音楽からは感じない。
 自身はストイックで精神的にも強い男だっただろうが、その音楽には人間的な優しさ・美しさが流れているのである。
 だからこれまでルネサンスの音楽を聴いたことのない人でも、ビクトリアの音楽には強烈に魅了される。
 そして自分たちが向かうべき光をそこに見出す。


 混迷、混沌、迷宮の時代に入ってしまった人類。
 しかしビクトリアの音楽を聴くと、その向こうに、なぜか救いがあるような気がしてくるのである。
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 16世紀スペイン。
 スペイン王カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世として即位する。スペインはヨーロッパ最強の国家となり、その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。さらにアメリカ大陸のほとんどを植民地としたのもこの頃。
 続くフェリペ2世(1556年即位)も、ポルトガルを併合、ネーデルラントや南イタリアなどを属領とするなど、スペインはまさに絶頂期を迎える。

 そんな頃に生まれたのが、このビクトリアだった。

 だからビクトリアはヨーロッパの辺境国家に生まれた異端の作曲家ではない。経済的にも軍事的にもヨーロッパの中央だったところから登場してきたのである。
 しかも名門中の名門の家柄で、海軍司令官や後にメディチ家の貴族となった親戚もいる。だからビクトリアも、生地アビラの名門学校や大聖堂の少年聖歌隊で充実した教育を受けていた。
 そして17歳のビクトリアは、フェリペ2世の奨学金を得てローマへ行くことになる。いくらスペインがヨーロッパの中心とはいえ、やはりカトリックの総本山はローマ。しかも当時、ローマにはイエズス会の最高教育機関があった。ビクトリアが入学したのももちろんそこ。もっと詳しくいうと、ローマのイエズス会の最高教育機関にはイタリア人用の「コレギウム・ロマーヌム」と外人用の「コレジウム・ジェルマニクム」があり、ビクトリアは「ジェルマニクム」で勉強していた。そしてよほど優秀だったのだろう、23歳にしてお隣の「ロマーヌム」の楽長となり、2年後には「ジェルマニクム」の楽長となる。

 誰と比較することもできないが、これってとんでもないことじゃないのか。

 ちなみに「ロマーヌム」の前の楽長がルネサンス最大の大家パレストリーナであり、当時は先任者が後任を決めることが多かったことから、ビクトリアはパレストリーナに推挙されたのではないかと言われている。ビクトリアのプロフィールではよく「パレストリーナの弟子」となっていて、実はそれは推測でしかないのだが、十分ありえるし、ひょっとしたら最高の弟子だったかもしれない。
 かくしてビクトリアの音楽活動としての環境は最高に整った。

パレストリーナ



 だが・・・ビクトリアの夢はそこにはなかった。

 彼は聖職者になりたかったのである。
 そして1575年、27歳。ビクトリアはついに念願の司祭に叙階される。
 やがて長年通っていたコレジウムを去る。・・・彼は一切の世俗的地位を捨て、ローマのサン・ジロラモ・デルラ・カリタ教会というフツーの教会のフツーの司祭となる。
 ビクトリアとはそういう男なのである。
 ただ作曲活動は熱心に続け、高い宗教心と道徳心を保ちつつ、多くの宗教作品を世に出していった。


 しかし10年に及ぶ宗教&作曲活動に疲れを見せたビクトリア。もしかすると故郷を思う気持ちも強くなったのかもしれない・・・1583年、35歳のとき、フェリペ2世に「スペインに戻って聖職者として瞑想の日々を送りたい」と要望する。
 それを聞き入れられる存在だったというのがすごいが、その願いは「恐怖の大王」を動かし、ついにビクトリアはスペインに帰ることになる。

フェリペ2世


 さてスペイン。
 マドリッドでビクトリアを待っていたのは、その実力に見合ったものすごい地位だったかというと・・・複雑。
 ビクトリアが務めることになったのはラス・デスカルサス・レアレス修道院の司祭、楽長。

 修道院である。

 しかし、実はその修道院には、王様フェリペ2世の妹マリアがいた。
 しかもただの妹ではない。
 このマリア、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の奥さんでもある(ちとややこしいが、カール5世の退位により、ハプスブルク家は「スペイン・ハプスブルク家」と「オーストリア・ハプスブルク家」に分かれて、スペインのほうの統治者がフェリペ2世に、オーストリアの統治者が叔父フェルディナントになった。そしてフェルディナンドは神聖ローマ皇帝も兼ねた。フェリペ2世の妹マリアはそのフェルディナンドの息子マクシミリアン2世と結婚した)。
 そのマリアは、夫マクシミリアン2世が亡くなったあと、カトリック信仰に打ち込むために故郷マドリッドに戻ってきたのである(ちなみにマクシミリアン2世とマリアの息子は、ハプスブルグ家最高の『オタク』皇帝ルドルフ2世)。
 要はスペインの王様の妹であり、先代神聖ローマ皇帝の皇后だったマリアがその修道院にいたわけで、ビクトリアはその皇太后付の司祭&楽長としてラス・デスカルサス・レアレス修道院にやってきた。
 考えてみればやっぱりすごいポジションかもしれない。
 で、これが世俗的過ぎず、かといって宗教色一色というわけでもなく、ビクトリアにはぴったりだったみたいで、彼はその後死ぬまでこの修道院の聖職者および音楽家として過ごすことになる。途中他の街の大聖堂から声を掛けられることもあったが、ビクトリアは行くことはない。

 勘ぐり深い店主は、この時代のビクトリア、修道院で結構楽しんでいたんじゃないかと思ったりして裏を調べたが、ビクトリアに関して浮いた話は一切なかった。
 当時の厳しいカトリック、しかもあの急進的なイエズス会で精神を鍛えたビクトリア、本当に生涯を謹厳実直な聖職者&音楽家として全うしていたのである。

皇太后マリア



 ただ、ここからは店主の推測、というか妄想である。

 皇太后マリアには何人かの娘がいたが、この時期に独身で生き残っていたのは一人だけ。
 末っ子の娘エレオノーレは、マリアがスペインに戻る1年前に12歳で亡くなっている。マリアがスペインに来たのは、カトリック信仰に集中したいというのと、ルドルフ2世が王国の首都をプラハに移すのを嫌がった、というのが主な理由とされているが、精神を病んだことも大きな原因。
 その病因のひとつがこの末娘の死にあるような気もする。
 そして、それと関係あるかどうか、マリアはスペインに帰郷したときに、唯一独身で生き残っていた下から2番目の娘マルガレーテを連れて来るのである。
 寂しかったからか、娘を残していくのが不憫だったからか、それともマルガレーテが自分で「お母様と一緒に行きます」と言ったかはわからない。いずれにしても、皇太后マリアは、娘のマルガレーテといっしょにマドリッドにやってきた。
 ・・・そしてその数年後に、ローマから有名な司祭であり音楽家であるビクトリアがやってきた。
 ビクトリアにしてみれば王様の妹君に仕えるということでそうとう緊張してラス・デスカルサス・レアレス修道院にやってきただろう・・・しかし、そこで皇太后といっしょに自分を出迎えてくれたのは、20歳の若き皇女。もちろんすでに僧職に就いている女性とはいえ、40歳独身のビクトリアはマルガレーテを見てどう思ったか。

 ひょっとして生涯ひとつも世俗曲を書かなかったビクトリアが、40歳を過ぎて初めて1曲だけ恋の曲を書いていたりしないかと思ったが・・・もちろんそんなことはなかった。
 おそらく二人が恋に落ちるなどということはまったくなかっただろう。

 ・・・だが、修道院内にあるビクトリアのお墓に、その死後22年にわたってずっと花を供え続けた女性がいなかったとは言い切れない。
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 さてそのビクトリアの作品。
 決定的に重要なものをひとつ。

 1603年に亡くなった皇太后マリアの死を悼んで作曲された「死者のための聖務曲集」

 6声のレクイエム(死者のためのミサ曲)、6声のモテトゥス、6声のレスポンソリウム、4声のレクチィオで構成されているが、そのうちの「レクエイム」だけが単独で録音されることも多い。(ビクトリアにはもうひとつ4声のレクイエムもあるのでちょっとだけ注意。)時代があまりにも違うのでフォーレやモーツァルトのレクイエムと比較するのは危険だが、音楽史を彩る多くのレクイエムの中でも最も美しいとされる。
 崇高で神秘的。
 こうした類の音楽を聴いたことがない人が初めてこの曲に接したら、おそらく衝撃を受けて惹きこまれずにはいられないと思う。
 
 あまりに無残な日常のなかで心を失いそうなときに、この曲を聴けば、・・・おそらく何かが変わる。






 ビクトリアの作品は決して膨大な数ではないが、最近になってとみに再評価が進み、録音も多くなってきた。
 そんな中でもひときわ高く評価され続けているのがタリス・スコラーズの録音。
 ビクトリアというと、まずこの録音で聴かれた方が多いと思う。新録音も増えてきたとはいえ、この録音が定番アルバムから落ちることはないと思う。


ピーター・フィリップス&タリス・スコラーズ

GIMELL
CDGIM 012
\2600
ビクトリア(1548−1611):死者のための聖務日課
 レクツィオ「我が心は生活に疲れたり」/
 レクイエム
 モテトゥス「わがハープは悲しみの音に変わり」/
 レスポンソリウム「主よ、われを解き放ちたまえ」
アロンソ・ロボ(1555−1617):モテトゥス「わがハープは悲しみの音に変わり」
ピーター・フィリップス(ディレクター)
タリス・スコラーズ
 1987年、ロンドン、セント・ジョンズ教会での録音。スペイン・ルネッサンス期の鬼才トマス・ビクトリア最大の傑作「死者のための聖務日課」初の全曲録音として大変な話題を提供した演奏。まさにビクトリアのこの作品はあまたの作曲家のレクイエムと比較してさえなお、音楽史上最大級の傑作のひとつだということを、この盤が証明した。タリス・スコラーズは端正で各声部を鮮やかに描き、この傑作にふさわしい高いレベルの演奏を披露。聴いて、しばし絶句するしかない超名演。







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