
JK ARTS
『田母神夕南/yuna plays LiszT~光と闇~』に寄せて
藤田恵司氏
『ホロヴィッツ 全録音をCDで聴く』『ルービンシュタイン 全録音をCDで聴く』の著者、藤田恵司氏が、新たにリリースされた田母神夕南(ピアノ)のアルバム『Yuna
plays Liszt ~光と闇~』について、アリアCDのために特別に寄稿してくださいました。どうぞご覧ください。
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『田母神夕南/yuna plays LiszT~光と闇~』に寄せて
私にとって大切な盟友のひとりで、拙著「ホロヴィッツ全録音をCDで聴く」と「ルービンシュタイン全録音をCDで聴く」の執筆において、多大なご助言をいただいた木下淳氏。ご本業はコンサートの撮影、運営及び企画をされている。
氏の会社「JK-arts」による初のCDで、第1弾として気鋭のピアニスト・田母神夕南のデビューCDがリリースされた。このピアニストの華々しいプロフィールは、ここではあえて触れないが、CDを聴くとその演奏に聴く凄腕ぶりはもとより、素晴らしさを体感出来ると信ずる。
昨今流行りのピアノに食らいつくかのような、とことんオンの録音はピアノの目の前でかぶりつきで聴くかのような迫力こそあるだろう。だが、チョイと聴くぶんにはともかく、私には聴いていて耳が疲れてしまう感がある。
そこへ画一的な、良くも悪くもワンパターンに調律されたピアノの音色に加え、これまた凄腕ばかりが宣伝された演奏が拍車を掛けているように思えてならない。
そんなクラシック音楽界隈の傾向とは一線を画し、いわゆる「趣味の良さ」で勝負されたのが、このCDの良さである。
2025年5月7&9日、横浜、栄区民文化センター「リリス」ホールでの収録。ピアノはスタインウェイで、昨年3月にこのホールへ納入されたと聞く。
若干オフ気味でピアノからの距離を感じさせ、好き嫌いこそあるかもしれないが、ホールの中に身を浸し、極上の臨場感ある席で聴いているかのような音質である。
田母神夕南による「オール・リスト・アルバム」で、リストの作曲はもとより、各種編曲が盛り沢山収録されている。
巡礼の年第3年「スイス」S.163~第4曲:「エステ荘の噴水」はとにかくピアニッシモのきめ細やかさがものをいう。それはきらびやかなドレス
を衣にまとっているようだ。その音色は高貴で、さりげなさとニュアンスの塊である。ここぞと自然にさらけ出されるフォルテの加減も絶妙だ。特に6分以降の焦らし加減にはグイグイと惹き付けられよう。
ワーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」~「イゾルデの愛の死」S.447は、よく知られているウラディミール・ホロヴィッツ(1903~1989)による最後の録音[ソニークラシカル]の場合はフォルテが際立ったが、ここではソフトな録音のせいもあってか思いのほか控えめに始まるように感じさせ、さりげなく、かついじらしく妖艶に歌われゆく。
前述のホロヴィッツによるそれは徹底してピアニズムの極致であり、「ホロヴィッツの至芸」そのものであった。ここではまるでオーケストラのように響き渡り、本当にワーグナーの楽劇のワンシーンのようだ。
この演奏ではひとつひとつの音が語り掛けてくる。音色を吟味し慈しむ。それでいて、4分以降は芯が強いながらも音楽に奉仕するリストの、かつこのピアニストの高みへ向かおうとするじわじわとした攻めのピアニズムが心ゆくまで堪能させてくれよう。
その意味でソフトな録音も、余韻を持って聴かせ生きているといえよう。
パガニーニによる大練習曲S.141~第3番「ラ・カンパネラ」(第4稿)はどうだろう。この曲といえば、昨年亡くなったフジ子・ヘミング(1931~2024)による自己投影的かつ腹芸的な演奏の数々[ビクター]がよく知られていよう。
ここでの田母神夕南による演奏はスケール大きく豊かなピアニズムがものをいう。音の間をここまで生かし切る凄味こそ、田母神夕南の「至芸」そのものといえまいか。
まるで大河のような一大交響曲を聴いているかのような充実感があるといえようか。
メフィスト・ワルツ第1番S.514「村の居酒屋での踊り」は造形の確かさはホロヴィッツ[BMG]と共通しよう。それでいて暴れまくってくれているのには驚きを禁じえない。そうしつつも、しっかりとたずなを締めて説得力を併せ持つのが心憎い。
あえて欲をいうならば、このひとならもっとピアニッシモの繊細さを活かせたはずであろうと思わずにはいられないが、その意味では今後の期待としておこう。
ショパンの6つのポーランドの歌Op.74~第1曲:「乙女の願い」S.480-1は私にはいささかおきゃんに聴き感じられるが、これは決して嫌味ではない。この類までなるリスト弾きの青春のモニュメントと評価したい。
このアルバムの中では一番よく知られているであろう愛の夢第3番変イ長調S.541-3はどうだろう。とかく名曲然として、マンネリズムの如く聴かせようとする演奏が多い。田母神夕南による演奏はあえて清々しく切り込む。その様が潔く清潔なるピアニズムを感じさせようか。
「別れ」S.251は今さらながら私にとって初めて聴く曲だが、卓越したデリカシ一が溢れたこの曲を爽やかな詩情とリスト晩年の無調音楽への発芽を聴いた。もっと弾かれて、そして知られても良い佳曲であろう。
トリはいよいよ、ベルリーニの歌劇「ノルマ」における各メロディーが満載された「ノルマの回想」S.394だ。
この曲がメカニカル的な意味でのテクニックにおいて、難曲中の難曲であることはいうまでもないが、それ以上にピアニストの表現力そのものが問われる。
よく知られている録音としては、「キューバ出身のリスト弾き」ホルヘ・ボレット(1914~1990)による没後リリースされたアラバマ・ライヴ(1988/4/4)[DECCA]や、「フレンチ・ピアニズムの奇才」エリック・ハイドシェック(1936生)による1994年盤[テイチク→キングインターナショナル]が挙げられよう。
前者ボレット盤はリストのピアノ作品集及びスタジオ録音で残されなかったレパートリーゆえ、リリース当時はかなり話題になっている。スタジオ録音ではやや脂の抜けた感が強かったが、ライヴでは晩年になっても香り高いボールドウィンを実にエレガント、かつダイナミックに鳴らしていたことが伝わってくる。
後者ハイドシェック盤は、我の強いこのひとにしては始まりこそピアノの音色が素直に引き出されてはいる。だが進むにつれて、だんだんとゴツい格好になりゆき、人間臭くなっていくのが、やはりこのひとらしいというべきか。
あれやこれやと述べてみたが、それゆえ、いくら腕達者のピアニストとはいえ、表現力が伴わなければならないのである。
そうしたこの難曲に対して、田母神夕南はまさに「心技一体」で奏で、描き、語り掛けてくるのである。この演奏では先に聴いてきた曲たちに聴く美点があらゆる意味で生きている。
その意味ではこのアルバムの総決算そのものである。
この21世紀を四半世紀過ぎようとしている今、個性で名を売るピアニストはあまたの数いれど、見た目だけではなく、音色はもちろん、表現力で、演奏そのもので勝負しているひと、勝負出来るひとはほとんどいない。
田母神夕南というピアニストは個性、音色、表現力で勝負出来る数少ないひとで、早くも次のアルバムが楽しみである。
そして、「JK-arts」による続編CDを期待したい。
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