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世界の片隅で、今週も誰かが一枚のCDに耳を止めている。
その小さな「偶然の重なり」を、世界100の観測点から拾いました。


ARIA CLASSICAL 100

世界クラシック定点観測100

今週、世界から浮かび上がってきた3枚

第6回
無視したかったのに無視できなかった



 世界の片隅で、今週も誰かが一枚のCDに耳を止めている。

 その小さな「偶然の重なり」を、世界100の観測点から拾いました。

 

 この企画では本当は、まだあまり知られていない作曲家、名前も聞いたことのない演奏家、そんな一枚を見つけたいと思っています。

 店主は、やはりマイナー盤が好きなので(笑)。

 ところが今週、世界の評論サイトやショップを見ていると、どうしても何度も引っかかってくる名前がありました。

 アンドラーシュ・シフ。
 ヨーヨー・マ、カヴァコス、アックス。

 ……そこは、もうみんな知っているでしょう、と言いたくなる(笑)。
 アリアCDが取り上げなくても世界中で取り上げてくれるでしょう、と言いたくなる。

 正直、できれば横目で通り過ぎたかった。

 でも、名前が出てくるから聴いてみる。
 世界の評を読んでみる。
 もう一度、聴いてみる。

 すると、無視するほうが不自然に思えてくる。

 もちろん、今週もちゃんと「アリアCDらしい発見」もあります。

 けれど今回は、無名盤を探す店主の前に、二組の大スターが立ちはだかった週でもありました。

 仕方ないです。
 よいものは、よいので。

 むしろ「できれば選びたくなかったのに、選ばざるをえなかった」ということが、今回の二枚への最大の褒め言葉なのかもしれません。




今回の3タイトル




その1


.

ECM



4878876
(2CD)
\4300→\3990
アンドラーシュ・シフ
若きブラームスから晩年へ──円熟のピアノ小品集


 ブラームス:
 《CD 1》
  1) アルバムブラット(アルバムの一葉)(1853)、
  2-9) 8つの小品Op.76(1871/78)
   (第1曲:奇想曲/第2曲:奇想曲/第3曲:間奏曲/第4曲:間奏曲/
    第5曲:奇想曲/第6曲:間奏曲/第7曲:間奏曲/第8曲:奇想曲)、
  10-16) 7つの幻想曲Op.116(1892)
   (第1曲:奇想曲/第2曲:間奏曲/第3曲:奇想曲/第4曲:間奏曲/
    第5曲:間奏曲/第6曲:間奏曲/第7曲:奇想曲)/
 《CD 2》
  1-3) 3つの間奏曲Op.117(1892)、
  4-9) 6つの小品Op.118(1893)
   (第1曲:間奏曲/第2曲:間奏曲/第3曲:バラード/
    第4曲:間奏曲/第5曲:ロマンス/第6曲:間奏曲)、
  10-13) 4つの小品Op.119(1893)
   (第1曲:間奏曲/第2曲:間奏曲/第3曲:間奏曲/第4曲:狂詩曲)
アンドラーシュ・シフ(ブリュートナー・ピアノ)

 【録音】2021年3月、ボン、ベートーヴェン・ハウス、ヘルマン・J.アプス記念室内楽ホール




 さて、アンドラーシュ・シフである。

 この名前を「発掘」する必要など、もちろんない。しかもブラームス。作品76、116、117、118、119。ピアノ好きなら何度聴いたか分からないような世界である。

 だから最初は、正直、ここを素通りしたかった。

 ところが聴き始めると、そうはいかなかった。

 まず耳を引くのが、1859年製のブリュートナー。シフが以前、ブラームスの2つのピアノ協奏曲でも使った、あの歴史的な楽器である。現代のコンサート・グランドのように、どこまでも豊かに伸び、すべてを包み込む音ではない。もっと木質的で、もっと脆くて、音の輪郭が近い。だからブラームス晩年の小品の内声が、妙に生々しく聞こえてくる。

 しかもこの2枚組、晩年だけで終わらない。冒頭には1853年、若きブラームスの《アルバムの一葉》。そこから作品76を経て、最後の作品119へ。

 若いブラームスから、人生の終わりを見つめるブラームスへ。派手なドラマなどない。しかしその間に流れた40年が、音の色そのものとして聞こえてくるようなアルバムなのである。

 世界が反応したのも、単に「巨匠シフの新譜だから」ではなかった。みんな、この静かな2枚組の中にある、異様なほど濃い親密さに耳を止めていた。



■世界では――

 まずドイツの「concerti」。シフの演奏を繊細、詩的、そして歌うように室内楽的だと評価しています。面白いのは、複数の声部がただ「聞こえる」のではなく、それぞれがどこへ向かおうとしているのかまで分かる、と聴いていること。

 そしてNDRは〈今週のアルバム〉に選出。ここで出てくる言葉が実にいい。

 「十本の指による室内楽」。

 ブラームス晩年の小品には、表面では静かでも、その内側でいくつもの声がささやき、答え、また消えていく瞬間があります。NDRはシフがそれを蜘蛛の糸のように細やかに結び合わせると聴き、さらに「これほどブラームスに近づけたことがあっただろうか」とまで踏み込んでいます。

 BR-KLASSIKが注目したのは1859年製ブリュートナー。現代ピアノにはない独特の脆さが、ブラームスの疑い、思索、ためらいをよく伝える。そしてシフはそこに「水彩画」のように色を置き、小さな小品から巨大な色彩の宇宙を作る、と紹介しています。

 一方、英国「The Critic」は少し違う。★★★★を付けながら、この古いブリュートナーの音色、フレーズ末尾の短さには留保をつけています。

 ところが面白いのは、その評論家自身が「自分の耳が本当にそう聴いているのか確かめるため、何度も聴き直してしまう」という趣旨のことを書いていること。

 褒める人も、少し戸惑う人もいる。しかし結局みんな、この音から離れられない。






■店主は――

 正直に言います。

 最初に聴いたとき、先の、レコード・アカデミーで大賞を取ったあのブラームス協奏曲ほどの「うわっ!」という衝撃はありませんでした。

 でも、そもそもシフは今回、そんなことを狙っていないわけですから当然と言えば当然で。

 音量で押さない。劇的に盛り上げない。「巨匠シフ、ここにあり」とも言わない。

 ただ、ブラームスの音の間に入っていく。

 すると、こちらもだんだん声を小さくして聴くようになる。

 これがすごい。

 作品117、118あたりになると、ピアノを聴いているというより、誰かの胸の内を聞いてしまっているような感じすらする。ものすごく渋い。ほんとうに渋い。でも、この渋さをここまで「音楽」にできる人は、そうはいないでしょう。

 そしてあのブリュートナー。ピカピカではない。むしろ少し枯れている。でも、その枯れた音だからこそ、ブラームス晩年の寂しさや優しさが、妙に近いところから聞こえてくる。

 有名だから選んだのではありません。むしろ有名だから、本当は横目で通り過ぎたかった(笑)。

 なのに聴き終わったあと、もう一度作品117をかけていた。

 ああ、これは無視できないな、と。

 世界がこんなにも反応している理由が、よく分かりました。













その2


.

SONY



19958479532
\3300→\3090
ヨーヨー・マ、アックス、カヴァコスに、今度はタメスティも参戦!
豪華な4人で、ベートーヴェン《英雄》をピアノ四重奏に!

ベートーヴェン/ウォスネル編:
 交響曲第3番変ホ長調 Op.55『英雄』(ピアノ四重奏版)
 レオノーレ序曲 第3番ハ長調 Op.72b(ピアノ四重奏版)
エマニュエル・アックス(ピアノ)
レオニダス・カヴァコス(ヴァイオリン)
アントワン・タメスティ(ヴィオラ)
ヨーヨー・マ(チェロ)




 そして、もっと困ったのがこれである(笑)。

 エマニュエル・アックス。レオニダス・カヴァコス。ヨーヨー・マ。そこへ今回はアントワン・タメスティまで入る。

 もう名前を並べただけで反則みたいなメンバーである。

 しかも曲はベートーヴェンの《英雄》。世界で最も有名な交響曲のひとつ。

 「定点観測100」でわざわざ紹介しなくても、誰かが紹介するでしょう。そう思っていた。

 ところが、このアルバムの面白さは「スター4人が《英雄》を弾きました」というところではなかった。

 交響曲から管弦楽の巨大な質量を取り去る。金管の咆哮も、ティンパニの衝撃もない。すると残るのは、ベートーヴェンが組み上げた動機、対位法、和声、そして四つの声のぶつかり合い。

 つまりこれは《英雄》を小さくしたのではない。
 巨大な交響曲の内部へ、四人で入り込んでいくアルバム。

 しかも「Beethoven for Three」と続いてきたシリーズなのに、《英雄》ではとうとう三人では足りなくなってタメスティを呼んだ。その瞬間から、これはもう別の生き物になっている。





■世界では――

 英国「The Times」は★★★★。特にタメスティのヴィオラが加わったことで、終楽章のフーガの線がくっきりし、冒頭の和音にも新しい重みが生まれたと評価しています。一方で、過去のウォスネル編曲にあった大胆さが今回は少し後退したのではないか、という留保も。

 しかし、この「四人になった」ということ自体が面白い。

 イタリアの「Franti」は、この新作を論じる際、まず《英雄》からオーケストラの質量や金管の衝撃が失われることを率直に認めています。でも、それで終わらない。

 失った代わりに、何が見えてくるのか。

 対位法。小さな動機の受け渡し。和声の骨格。四人の声が絡み合う瞬間。

 つまりこれは「縮小版《英雄》」ではなく、サロン、居間で鳴るもうひとつの《英雄》なのだ、という見方です。

 このシリーズについてGramophoneも以前から、ウォスネルの編曲は原曲を尊重しながら原曲に縛られない、と高く評価してきました。

 今回も同じ。交響曲を四人用に小さくした、ではない。ベートーヴェンの設計図を使って、アックス、カヴァコス、タメスティ、ヨーヨー・マという四人のための巨大な室内楽を作った。

 そう考えると、急にこのアルバムが面白くなってきます。








■店主は――

 いやもう、うますぎる(笑)。

 いよっ、千両役者!

 という感じ。

 誰か一人が前に出て「俺を聴け」とやっているわけではないのに、ちょっとした受け渡しの一つ一つが、いちいちうまい。カヴァコスが線を立てれば、タメスティがその内側を埋め、ヨーヨー・マが底から支え、アックスが全体を動かす。

 そして面白いことに、聴いているうちに「これは《英雄》の室内楽版だ」という意識がだんだん薄くなってくる。

 あれ? これ、最初からこういうピアノ四重奏曲だったんじゃないか?

 そんな錯覚すらしてくる。

 もちろん原曲の《英雄》の、あの巨大な爆発力とは違う。でもその代わり、今までオーケストラの大音響の中に隠れていたものが、すっと目の前に出てくる。

 これはこれで、めちゃくちゃ面白い。

 本当は、定点観測なら無名のアルバムを発掘したい。ヨーヨー・マとアックスとカヴァコスなんて、アリアCDが救済する必要はまったくない(笑)。

 でも、これだけの人が集まって、こんなことをやってしまったら。

 無視するほうが不自然。

 あまりの「王様盤」なので、ここで取り上げるのがちょっと気恥ずかしい。でも悔しいけれど、やっぱり面白かった。すごかった。









その3


.

HARMONIAMUNDI

HMM 905417F
\4200→\3890
ベルリン古楽アカデミー&メルニコフが挑む、
 忘れられた19世紀の才媛エミーリエ・マイヤー

エミーリエ・マイヤー(1812-1883):作品集 第1集

 序曲 ニ短調 
 ピアノ協奏曲 変ロ長調
 序曲第3番 ハ長調 
 交響曲第1番 ハ短調
アレクサンドル・メルニコフ
 (ピアノ/
  ブリュートナー、1867年製)
ベルリン古楽アカデミー
ベルンハルト・フォルク
 (コンサートマスター)

 録音:2025年9月24日-10月2日、ピエール・ブーレーズ・ホール(ベルリン)



 そして3枚目。

 ようやく来ました(笑)。

 これです。こういうのを定点観測で見つけたかった。

 エミーリエ・マイヤー。1812年生まれ、1883年没。19世紀ドイツで8曲もの交響曲を書いた女性作曲家である。

 とはいえ、もう「完全に忘れられた作曲家」と言うのも違う。近年はCPOをはじめ録音が積み重なり、交響曲や序曲を実際に耳にできる環境が整ってきた。

 だからこそ今回のHARMONIA MUNDI盤が面白い。

 「こんな女性作曲家がいました」という紹介ではない。ベルリン古楽アカデミーがピリオド楽器で挑み、ピアノ協奏曲にはメルニコフ、しかも1867年製ブリュートナー。そしてこれは、マイヤーの現存する管弦楽作品をピリオド楽器で録音していくシリーズの第1弾。

 つまり仏HMは、珍品として一枚出して終わる気ではない。

 エミーリエ・マイヤーを、ベートーヴェンやシューマンやメンデルスゾーンと同じように、「どんな楽器で、どんな響きで、どう演奏すべき作曲家なのか」という段階まで持ってきたのである。

 これ、けっこう大きな出来事だと思います。




■世界では――

 ドイツの「concerti」はこの録音を「Glucksfall=幸運な出会い」と表現。マイヤーの大胆な管弦楽法、きっぱりしたエネルギー、色彩的な和声を、ベルリン古楽アカデミーとメルニコフが鮮やかに鳴らしたと評価しています。

 ベルリンの「radio3」は〈今週のアルバム〉に選出。ここで面白いのは、演奏者たち自身が最初に譜面を見た時の反応。

 「女性作曲家だから発掘しなくては」という義務感ではない。譜面を読んで、純粋に、「これは何だ。面白い」となった。

 この順番が重要なのだと思います。

 一方「The Classic Review」はさらに踏み込んでいます。まず、ここ10年ほどですでにマイヤーの管弦楽作品には複数の録音が登場しており、CPOには現存管弦楽作品を広く収めたシリーズもある、と整理。そのうえで今回の演奏を既存盤と比較しています。

 ピアノ協奏曲では、メルニコフの演奏に親密さと生き生きした喜びがあり、1867年製ブリュートナーから多彩な色を引き出していると高く評価。ところが交響曲第1番では、ベルリン古楽アカデミーの細身で銀色の弦、ほとんどヴィブラートを使わない響きが鮮烈である一方、ドラマの重量感についてはNDR放送響/レオ・マクフォール盤のほうに分がある、としています。

 ここが実に面白い。

 もう議論が、「エミーリエ・マイヤーという女性作曲家を知っていますか?」ではないのである。

 「この交響曲は、どの演奏がいちばん作品のドラマを引き出しているのか」というところまで来ている。

 発掘された作曲家が、ついに「演奏を比較される作曲家」になった。

 これは、かなりうれしいことです。





■店主は――

 候補を3枚聴いて、ようやく、

 「ああ、定点観測やってるなあ」

 という気分になりました(笑)。

 これですよ、これ。

 シフもすごかった。ヨーヨー・マたちも、悔しいくらいうまかった。

 でもアリアCDとしては、やっぱりこういう一枚に出会うとうれしい。

 まず、仏HMが本気です。「忘れられた女性作曲家を一枚出してみました」という感じがまったくない。古楽器を揃え、メルニコフを呼び、歴史的ブリュートナーを持ってきて、しかもシリーズ第1集。

 そこまでやるのか。

 その本気度にまず驚きました。

 そして作品。正直に言うと、まだ「エミーリエ・マイヤーは絶対的な大作曲家だ!」と断言するところまでは聴き込めていません。

 でも、聴いていると随所で、

 「おっ?」

 となる。

 和声の動きだったり、突然の管弦楽の色だったり、妙に大胆な押し出しだったり。「あれ、今の面白かったぞ」と耳が止まる瞬間が何度もある。

 こういうときが一番危ない(笑)。もう一回聴きたくなるからです。

 そして何より面白いのは、これは「世界初録音だから価値がある」という盤ではないこと。すでにCPOなどの録音がある。比較対象がある。そのうえでHMが、

 「では、ピリオド楽器でマイヤーをもう一度考えよう」

 とやってきた。

 つまりマイヤー再発見は、もう第二段階に入ったんです。

 これはちょっと追いかけたくなります。第2集、第3集が出たら、たぶん私はまた聴くでしょう。

 今週の3枚の中で、いちばん「この先」が気になったのは、私はこのアルバムでした。














第6回を終えて。

 ということで、今週の3枚。

 振り返ってみると、最初に思っていた以上に面白い組み合わせになりました。

 シフのブラームス。
 ヨーヨー・マ、アックス、カヴァコス、タメスティの《英雄》。
 そしてエミーリエ・マイヤー。

 一見すると、何の共通点もない。

 でも3枚を聴き終えて、ひとつだけ共通していたことに気づきました。

 「知っているつもり」を、もう一度ひっくり返す。

 シフは、何度も聴いてきたブラームス晩年の小品を、1859年製ブリュートナーで、まるで誰かの独白のように聞かせた。

 四人のスターは、誰もが知っている《英雄》からオーケストラを取り去り、その骨格の中にこんな室内楽が隠れていたのか、と驚かせた。

 そしてマイヤーは、「忘れられた女性作曲家」という紹介の段階を越えて、ついに「どの演奏がいいのか」を世界が論じ始めた。

 発見というのは、知らない名前を見つけることだけではないんですね。

 知っているはずの作曲家。
 知っているはずの演奏家。
 知っているはずの名曲。

 そこに、まだ聴いたことのない音楽が潜んでいる。

 ということで無視したかったのに、無視できなかった。でも結果よかった。


 今週は、そんな3枚でした。

 さて。
 来週、世界のどこで、どんな一枚がこちらを呼び止めるでしょう。





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