アリア・レーベル第4弾
シルヴェストリ&ウィーン・フィル
ドヴォルザーク:交響曲第7番
ARIA AR 0004 1CD-R\1700
シルヴェストリといえば誰もがその爆裂演奏を期待する。どこまでお下劣にムチャをやってくれるか。
そんなシルヴェストリが1950年代末からステレオでドヴォルザークの後期3大交響曲を録音した。
第9番がフランス国立管、第8番がロンドン・フィル、第7番がウィーン・フィルという、曲ごとに全部オケが違うという粋な企画。
第9番は有名な文句なしの爆裂演奏。第8番はロマンチックきわまりないドロドロ系の個性派演奏。
ところが今回紹介するウィーン・フィルとの第7番は・・・・
普通なのである。
終楽章コーダ付近で「おや」と思わせてくれる以外は、ほんとにシルヴェストリどうしたの、というくらい真っ向勝負の正攻法。
だから聴くものはシルヴェストリ云々ではなく、ウィーン・フィルの美しさ、すごさ、すばらしさに酔いしれることになる。
1960年代初頭の名手集団ウィーン・フィル。さすがの爆裂男シルヴェストリも、彼らの前ではただひれ伏すしかなかったか。
弦の美しさはいまさら言うに及ばず、木管の音は官能的なのに気品にあふれ、金管も存在感が強いのに少しも耳障りでない。
とにかく一人ひとりが異様にうまい。
技術的なものでなく、心から「音楽」しているのである。
それはまるで巨大な室内楽団のようですべてが流麗で貴族的。
こんなとんでもないオーケストラを前にしたら、それはたいていの指揮者なら彼らの自由にさせるしかないと思うだろう。
実際シルヴェストリは50年代末から60年にかけてウィーン・フィルと何回か録音を行っているが、シルヴェストリの異常性を示すような演奏はない。
たいていがエスニック系レパートリーなのでシルヴェストリの変態性を主張するような状況ではないというのもあるけれども、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」、R・コルサコフの「スペイン奇想曲」などでもウィーン・フィルの天国的な美しさを思い知らされて終わる。
シルヴェストリの出番はない。
また大作録音としては、この時期のウィーン・フィルとしては珍しいショスタコーヴィチの交響曲第5番の録音があるが、これも異様解釈を期待すると肩透かしを喰らいそうなスマートな演奏。第2楽章では一瞬「ニューイヤー・コンサート」に様変わりしてウィーン・フィルの妙技をみせつけれられる。
結局ウィーン・フィルが主役なのである。
だから今回紹介するドヴォルザークの交響曲第7番も、どうぞウィーン・フィルの美しさすばらしさをたっぷりご堪能ください・・・・
・・・というような話で終わるわけがない。
違うのである。
このドヴォルザークの7番、ただ「ウィーン・フィル美しいねー」、じゃ終わらないのである。
ラヴェルやR・コルサコフやプロコフェエフでのシルヴェストリとはちょっと違うのである。
確かにここでもウィーン・フィルはため息が出るほど美しいしすごい。
しかし、シルヴェストリ、この絶世の美女をどうすれば甘美にエレガントに上品に知的に繊細に演出できるか、きちんと計算しているような気がする。そしてそれを悟られないように、このおそるべき百戦錬磨の天才集団をひそかに操っている・・・。
そうと知らずにウィーン・フィルのみんなは、「この指揮者自由にさせてくれてやりやすいねえ」とか「この指揮者のときはなんか気分いいんだよねー」などとのんきなことを言いながら、実は知らぬ間に麻薬中毒者のようにじわじわシルヴェストリの仕掛けた罠に掛かっていくわけである。
だから一見のびのびとした自由気ままな演奏のように見えて、その背後に、どこかピンと張り詰めた緊張感を感じるはず。
シルヴェストリ、要所要所で、まるで道化役を演じていた奴が突如ギラリとした目つきをしたときのような、そんなゾっとするような存在感を見せ付ける。
楽団員たちに気ままな思いをさせていると思わせながら、決して逃さないようしっかりその腕と心を掴み、きっちり自分の思い描いた音楽絵図を完成させているのである。
案外、これこそがシルヴェストリ最大の爆演だったりするのかもしれない。
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原盤のジャケット
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