アリア・レーベル第16弾
ARIA AR 0016 1CD-R\1700
フルトヴェングラー&ベルリン・フィル 1942年12月
シューベルト:交響曲第9番「グレイト」
アリア・レーベル、フルトヴェングラー第2弾はシューベルトの「グレイト」。
フルトヴェングラーの「グレイト」には有名な録音が二つある。
ひとつは空にそびえる大聖堂のように堂々たる1951年の録音。
もうひとつが、評論家の宇野功芳氏も「フルトヴェングラー愛聴盤ベスト3」に入れていた、1942年の激烈爆発的演奏。
・・・今回紹介するアルバムである。
もちろんいまさらその演奏についてコメントする必要がないのは分かっているが・・・すごい。
息ができなくなるような追い込みを見せる第1楽章、詩人の独白を思わせる深いロマンの第2楽章、荒々しくうねる第3楽章、冒頭から怒涛の勢いで進行しラストまで苛烈な瞬間が一秒たりとも緩むことがないという異常な終楽章。
1942年。
当時のフルトヴェングラーはある意味絶頂期だったかもしれない。
ドイツで芸術家として活躍するにはナチスに認めてもらわなければならないという時期ではあったが、フルトヴェングラーはナチスと距離を置きつつ、しかしお互いに持ちつ持たれつの関係で、微妙な均衡を保っていた。
ヒトラーの誕生日コンサートで指揮をすることからはずっと逃げ回っていたフルトヴェングラーだが、1942年の4月のコンサートではついに指揮台に立たざるをえなかった。またヒトラーにパーティーに呼ばれると断れなくてピアノ演奏を披露したりもした。拒否していた「被占領地域」への演奏旅行も引き受けた。
フルトヴェングラーは自分が許せる最低限の譲歩をすることで、ドイツにおける「卓越した国宝」として音楽界に君臨した。
そしてその絶頂期を迎えた「国宝」の鈍く光る矛先は、ヘルベルト・フォン・カラヤンという、ここへきて台頭してきた若き才能あふれる指揮者に集中する。
ベルリン・フィルのコンサートからは「奴」を追い出した。
が、「奴」はまだベルリン国立歌劇場を舞台に活躍している。油断できない。
ただヒンデミット事件以来、ベルリン国立歌劇場とはちょっと縁遠くなっている。
なんとかベルリン国立歌劇場からも「奴」を追い出す方法はないものか。
そんなときカラヤンのわがままに愛想が尽きてきたベルリン国立歌劇場総監督のティーティエン、フルトヴェングラーを広告塔としてもっと活用したいナチスの宣伝相ゲッペルス、そして・・・ベルリン国立歌劇場から「奴」を追い出したいフルトヴェングラー。
三者の合意により、ついにフルトヴェングラーはベルリン国立歌劇場に復帰することになる。
そして最大のイベントが訪れる。
爆撃されて使用不能だったベルリン国立歌劇場の再開公演、「ニュルンベルグのマイスタージンガー」。
若きカラヤンはすっかり自分がその指揮台に立つものと思っていた。プローベも自分でこなした。しかし本番の指揮台に立ったのは・・・「国宝」フルトヴェングラー。
さすがにカラヤンもこのときばかりはティーティエンに「納得いかない」と抗議したが、返事は「君の納得は必要ない、裏玄関は開けておくのでいつでも出て行くように」、と諭される。
カラヤンの完全敗北。
1943年以降の彼のコンサート予定表は空白だらけ。ここへきてカラヤンは失業状態に陥ってしまったのである。
勝ったのはフルトヴェングラー。完全ではないものの、ついににっくき「奴」を葬り去った。
そして無事上演された1942年12月7日のベルリン国立歌劇場再開公演「ニュルンベルグのマイスタージンガー」。
フルトヴェングラーはどんな面持ちで指揮台の上に立っていたのか。おそらく喜色満面だったのではないか。
さて・・・前ふりが長くなった。今回のアルバムはシューベルトの「グレイト」。
この「グレイト」の録音は、諸説あるが1942年の12月6日から8日というのが有力である。
もしこの日だったとしたら、この演奏、上記「マイスタージンガー」の公演とまったく同時期ということになる。
フルトヴェングラー、このときどれほど歓喜に満ちていたか想像するに余りある。
音楽界に君臨する「神」として、憎き悪魔に鉄槌を喰らわしてやった喜びに打ち震えていたのではないか。
そしてその屈折した喜びと興奮が、この異様に上気した「グレイト」の演奏を産み出したとしたら・・・。
芸術は時におそろしい。
(フルトヴェングラーのシューベルト交響曲第9番の録音)
戦中 |
1942.12.6-8
(5.31or6.1) |
BPO |
メロディア |
当録音 |
1943.5.12 |
VPO |
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戦後 |
1951.11-12 |
BPO |
グラモフォン |
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1953.8.30 |
VPO |
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1953.9.15 |
BPO |
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