第2次世界大戦末期。そのときジュリーニは屋根裏に潜んでいた。
彼は軍から脱走していたのである。
ゲシュタポに見つかれば引きずり出されて公衆の面前で射殺されることは間違いない。・・・しかし運よくゲシュタポの連中は屋根裏までは捜索しなかった。
ジュリーニはそんな状況で終戦を迎えた。
もちろん彼の生来の気質もあるだろうが、そんな戦時中の経験もあってか、彼が生涯こだわったのは「自由」だった。
好きなときに好きな曲だけを好きな楽団と演奏する・・・そのスタイルは生涯変わらなかった。
どんな有名なオケだろうとどんな有名な歌劇場だろうと、好みに合わなければ誘いを断った。どんな有名曲だろうと、どんな人気作曲家だろうと、理想的な演奏ができそうになければ取り上げなかった。
ジュリーニは戦後、「真っ白な経歴」を買われてイタリア各地で活躍した。
まず手始めに昔ヴィオラを弾いていたことのあるアウグステオ管弦楽団(後のサンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団)を指揮、その後ローマ放送管弦楽団の音楽監督、そしてミラノ放送管弦楽団の音楽監督に就任、さらにトスカニーニとデ・サバタに認められミラノ・スカラ座にデビュー、1953年からはデ・サバタの引退に伴ってミラノ・スカラ座の音楽監督を務めた。
30代でのミラノ・スカラ座音楽監督就任である。ジュリーニの音楽性の高さと人間性の豊かさと運の強さを物語る。
ただこの経歴からご覧のとおり、彼は歌劇場上がりの指揮者ではない。
華々しいオペラ録音、そして30代でスカラ座音楽監督の地位に着いたことなどからジュリーニはオペラ畑で育ったと思っている方も多いが、彼は元々コンサート指揮者なのである。
だから常に彼の心の中にはコンサートを指揮したいという思いがあった。
そんな彼に白羽の矢を立てたのが、20世紀最大のレコード・プロデューサーの一人ウォルター・レッグ。
彼はフィルハーモニア管弦楽団を設立し、カラヤンとともに膨大な録音を成し遂げてきたが、カラヤンがベルリン・フィルハーモニーの指揮者になったため、今度は巨匠クレンペラーとタッグを組んだ。
しかしおそらくレッグは将来のスター候補を必要としたのだろう。そんな彼のおめがねに適ったのが、ジュリーニだったわけである。
ということでジュリーニの本格的なコンサート録音活動は、1955/56年のフィルハーモニア管との録音から始まる。
今回ご紹介するシューマンの交響曲第3番「ライン」は、そんな頃のジュリーニの代表的録音。
彼の「ライン」はロサンゼルスとの1980年の録音が名高い。
ロサンゼルス時代のジュリーニの録音には傑作が多いが、そのなかでも「ライン」の評価は高い。
しかし店主は、そのロザンゼルス・フィルとの演奏より、今回の1958年のフィルハーモニアとの「ライン」のほうが断然好きなのである。
まず冒頭の爆発力。
これは好みなのだろうが、「ライン」の出だしがフニャーと力なく始まる演奏が好きではない。いきなり脱力してしまう。ここは男性的にガツーンといってほしい。
その点フィルハーモニアのほうはこれ以上ないくらい景気よく行ってくれる。
そしてシューマンには悪いが、1958年のフィルハーモニアとの録音はマーラー版を採用している。
いわゆるオケを分厚くして迫力を増している版である。
だからラストも豪快で爽快。「男!」という感じがする。
途中オケが荒っぽかったり、大技過ぎるところもあるのだが、ジュリーニがこの時代からこんなスケールの大きな演奏をしていたことを知ったら、きっと嬉しくなると思う。
当時から彼はこの曲なら自分の思い通りに描けることを知っていたのだろう。
ジュリーニの資質からするとシューマンは合うような気がするが、彼が録音したシューマンの交響曲は第3番のみ。
ほかの曲には手をつけなかった。
彼はこの当時から厳格にレパートリーを選んでいたわけである。
ジュリーニは70年代から80年代に掛けて神がかってきたと思われているが、そうではない。
ジュリーニは50年代からすでにジュリーニだったのである。
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