アリア・レーベル第24弾
ARIA AR 0024 1CD-R\1700
メンゲルベルク&ベルリン・フィル/1940年7月
チャイコフスキー:交響曲第5番
この録音を我々はどう聴けばよいのだろう。
少なくとも私にはまだその答えが見つかっていない。
演奏だけを評価するなら、ある意味簡単である。
第1楽章からメンゲルベルク節は全開。聴くものを衝撃と興奮の渦に巻き込む。
濃厚でスケールが大きく、ときに甘くときに苛烈。ホールからはみ出しそうな自我と、楽譜から滴り落ちるロマン。楽曲カットも自由自在。
ニューヨーク・フィルでいっしょに仕事したトスカニーニにあえて対抗するような強烈な大時代的前世紀演奏とでも言おうか。
しかしチャイコフスキーの弟がメンゲルベルクの演奏を「兄のようだった」と絶賛したことから、メンゲルベルクの解釈は決して「恣意的」と言い切れない部分もある(彼の演奏は即興ではなかった)。
しかもオーケストラはベルリン・フィルである。
戦前・戦中に披露された最高のチャイコフスキー交響曲第5番の演奏の一つと断言していいだろう。
ただ・・・この録音が為されたのは1940年7月。
メンゲルベルクのチャイコフスキー交響曲第5番には3つの録音がある。
1928年のコンセルトヘボウ。
1939年のコンセルトヘボウ。
そして・・・今回の1940年のベルリン・フィル。
メンゲルベルクはオランダで生まれ、1895年、わずか24歳でコンセルトヘボウの首席指揮者となり、その後50年にわたりこのオーケストラを成長させ、進化させ、熟成させた。だからご存知のようにメンゲルベルクといえばコンセルトヘボウ、コンセルトヘボウといえばメンゲルベルク。
しかしこの演奏はベルリン・フィルなのである。
そしてしつこいようだが録音は1940年7月。
場所はベルリン。
このころドイツ周辺で活動した指揮者は、ナチスに協力しないことで戦時中ボロボロになるか、ナチスに協力したことで戦後ボロボロになるか、そのどっちかしかなかった。どっちを選択してもボロボロになるのが戦争か。
そしてメンゲルベルクが選んだのは後者だった。
メンゲルベルクはオランダでは英雄であり大偉人であった。国民人気投票では女王を抑えて第1位になってしまうほど。
そこに・・・ナチスがやってきた。オランダに、そしてメンゲルベルクの人生に。
1940年5月、ナチスはオランダに侵攻、わずか1週間でオランダ軍は降伏。さきほどの女王や閣僚たちもみなイギリスへ亡命。中立国として平和だと思われたオランダは瞬く間に悪魔の手に落ちてしまったのである。
そこでメンゲルベルクはどうしたか。
メンゲルベルクはオランダ人だが、両親はドイツ人だった。
そして幸か不幸か、彼はナチスのオランダ占領軍長官と仲が良かった。というより、ナチス自体にそれほど違和感を感じていなかった。
彼はナチスに占領されたアムステルダムでこれまで同様に活動を続けた。
それだけではない。ドイツに赴いて指揮棒を取り、さらにフルトヴェングラーがなんとか固辞しようとした占領地域でのベルリン・フィル・ツアーにも出掛けた。
占領地域での演奏というのは、当然のことながら占領地の住民のためではない。占領するナチスの軍人のための慰問公演である。
その末路は哀しい。
戦後、メンゲルベルクはもちろんオランダにはいられずスイスに逃げのびるが、オランダでは戦争犯罪人として追放処分となる。
その罪は重く、1947年にカラヤンやフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュたちが次々と楽団復帰を果たしても、メンゲルベルクは許されなかった。
そんなメンゲルベルクの追放解除の雰囲気がようやく漂い始めたのは1950年も過ぎてから。
減刑処分が下され、1952年から復帰の可能性が出てきたのである。
しかし、神がそれを許さなかったのか、自らがそれを許さなかったのか、・・・その日を迎える1年前に、彼は故郷から遠く離れた地でひっそりと息を引き取る。
くどいようだが、このベルリン・フィルとのチャイコフスキーは、1940年7月にベルリンで録音された。
・・・そう、ナチスがオランダを占領・略奪した2ヵ月後のことである。
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